久しぶりに読書をした。
もともと、Kindle Unlimited・青空文庫のおかげで読み放題。なんとなくダウンロードされていたので、Kindleで再読。
すっかり忘れていたことにびっくりした。そういえば、夏目漱石「吾輩は猫である」でさえうる覚え。しかし、この本に関しては、読んだ覚えがないくらいだ。
とにかくそんな自分の記憶力なさにびっくりした。
読み終わった後に、みんなはこれを読んでどう思うんだろう。みんなの感想を知りたくなった。もちろんググった。そしたらば、某町で行われている読書コンクールで中学生が「人間失格」の感想文で賞をとっていた。
その感想文は、初老を迎える私なんかを尻目にしっかりとした文章で、この本を評していた。ざっくりいうと彼は人間失格ではないと。
私は、これを通して著者は何を言いたいのかとそれを想った。
本の中の「私」は、自分を幼い頃から変わっていると思っていた。その心の中を記した。その心の中をみるに彼は稀に見る繊細な子供だったんだろうと感じた。幼い子にトラウマが課せられ、人の目を気が狂いそうになるくらい気にして自分を見事に偽って生きている。むしろその徹底ぶりにこの人は弱いんだか強いんだか全然わからなかった。
時代が時代で、精神科病棟は「脳病院」と言われている。
太宰治が現在生きていて、「人間失格」を書き直すとしたら、中学生が読める文章ではないくらい時代が変わっているんだろうと思う。
自分自身を「人間失格」だと称した「私」は多くの人からみれば、人間失格ではないのだろう。私も同じだ。でも、そう思うのは何故か。
この世の中もっとその烙印をおされてもおかしくない人がいるからだと私は、思う。
私が失格かどうかの是非はさておき、
現代の人間たちと比較すれば、「私」より人間失格と言われる人が増えた。
著者もあの世で驚いているかもしれない。
そして、もう100年後、この人間失格な「私」は
もっとひどいヤツはいる、人間失格とまではいえない。
こんなヤツは失格どころか人間としてうまれてくるな。
極端だが、どちらと評されるのか。
そんなことを考えた。
あと、アニメ「銀魂」のあとに読んだもんだから、テンションダダ下がりした。
心が弱くなったのか。もう少し気合いでもいれて読めばよかった。ライトノベル感覚で読んだものだから、逆にすんなり感情移入ができてしまった。自分だったらと。
ここまで逃げ続けることはしないと思うけれども。逃げ続けた男。これだけ自覚してるんだから、自覚しないよりはマシなのだろうか。いや、自覚あるなし関係なく逃げ続けた。
失格かどうかはわからないけど、人より自分が大事で逃げ続けた「私」に関しては不憫ではあるが、今の私には同情すらできない。
「私」は何をもって自分を人間失格と評したのか。
逃げまくって逃げまくって、もう自分の意思では逃げられなくなったからか。
私は、とにかく人を不幸にしてまで逃げる人の気持ちはわからないという主観的な意見と、
この小説にこの題名をつけた意味を知りたいと思った。